2009-05-29 第171回国会 衆議院 内閣委員会 第13号
そういうことでいいますと、帝室博物館でありますとか帝国図書館というのが明治の初めのころにできた。明治の初めに岩倉使節団というのが米欧を回覧したわけでございますが、そのときに帰国途上で、一番最後のころでございますが、イタリアのベネチアにみんな行きました。
そういうことでいいますと、帝室博物館でありますとか帝国図書館というのが明治の初めのころにできた。明治の初めに岩倉使節団というのが米欧を回覧したわけでございますが、そのときに帰国途上で、一番最後のころでございますが、イタリアのベネチアにみんな行きました。
そのときに、私は、奈良市には帝室博物館あるいは女高師、県庁というふうに文化施設が幾つもある、しかし奈良県の南部にはそうした文教施設が一つもない。だからこの研究所なり博物館なりは南の方に置くべきだというので、やっとそのことが入れられたわけでありますが、確かにいまの御質問は、大和の南部地域の文化開発ということについて一つの着眼をされたことと存じます。
それから、昔で言えば帝室博物館でございますとか、こういったものもまさに帝室であったわけでありますけれども、こういったものも当然離れているというようなことでございまして、それからあの当時財産税がかかったわけでございまして、あらゆるものをそういった意味で出されたわけでございますが、で結局、やはり不時の用に要るであろうということで、当時といたしましては千五百万の現金といいますか、それだけが皇室に残ったと、
○村田委員 森鴎外が「元号考」というのを大正六年、宮内省の帝室博物館総長兼図書頭に任官した後図書寮での業務の一つとして着手した仕事でございます。
もっとも終戦に伴いまして学習院であるとか、帝室博物館、あるいはただいま農林省にまいりました帝室林野というような大多数の職員、仕事自体が離れましたので、それに伴って離れていった人たちが三、四千人あろうかと思います。
これは必要がないならもう廃車にして、帝室博物館か何かで、これがかつての天皇御常用の御料車だとして国民に見せてあげるほうがよほどいいわけですから、そういう実際に実用に供せられない御料車それから馬、こういうものがあるならば、車のほうは昔の帝室博物館、いまは上野の博物館でもいいですから、納めて、国民にそれを見せる、こういう措置をすべきだと思うのですが、いかがですか。
その間、明治三十三年に帝室博物館と改称、また、大正十三年には京都市に下賜されて恩賜京都博物館となっておりましたが、去る昭和二十七年から文化財保護委員会の所管となり、自来京都国立博物館として今日に及んでおります。
そこで機構と人員の縮減をはかりまして、あるいは帝室博物館、帝室林野局のようなのが政府機関に移りました。この表の上のずっと左の方の端に書いてあります、そういうところをごらんいただきたいのですが、この中の、今申しましたように、帝室博物館、帝室林野局と、こういうのは政府機関の方に移す、博物館は文部省の関係、林野局は農林省の関係に移っております。
細川君は、お手元の履歴書で御承知のように、大正三年から昭和二十年まで、煮十年余にわたりまして貴族院議員に列し、その間東亜同文書院より、私立目白中学、財団法人学研院等、教育事業の各役員、また財団法人日華分会、同斯文会、東京地学協会等の学術関係の各役員を歴任、さらに帝室博物館復興翼賛会、国宝保存会、国立公園調査会、国際観光委員会、帝室博物館、美術振興調査会、正倉院評議会、国立博物館等、数多くの文化事業の
これはまだ帝室博物館時代、即ち昭和十六年と存じまするが、に只今の東京国立博物館が預かつたのでございます。まあこれは或いは命令出陳になつており、又その後になりまして寄託出陳とか、勧告陳とかいろいろに変つておりまするが、とにかく非常に長い間お預りしておつたのであります。その以前におきましては、これは年数をちよつと正確に申上げることは只今できませんが、奈良の博物館がやはりお預りしておりました。
又團君は、東京帝国大学文科大学哲学科において美術史を専攻の後、同大学文科大学副手を嘱託されましたが、やがて東京帝国大学講師、同大学助教授として、美術史学講座を約十年間担当し、昭和八年七月退官して後は、国際文化振興会常務理事、帝室博物館顧問に就任、更に昭和二十一年五月より約一年間、貴族院議員に在職し、続いて参議院議員に当選しておりますが、現に日本美術協会副会長、ブリジストン美術館運営委員長等の職にあるものであつて
約三十年ぐらい帝室博物館、国立博物館を経て、約三十年ほど修理に従事しておりますから、この中には木彫あり、金工あり、あらゆる、いわゆる当時の修理は手にかけておりますので、修理もその見通しを持つて今度の夜間の工事をやつてのけたというような考え方を持つているのでございます。
前者は京都帝室博物館として長い歴史を持ちまする現在の京都市立恩賜博物館を国立に移管いたそうとするものであり、後者は質的にも量的にも我が国文化財の一中心とも申すべき奈良市に、これらの文化財の研究機関を開設いたそうとするものであります。これらの機関の設置によりまして、今後我が国の文化財の保存、研究及び活用は一段と充実向上を見るに至るものと信じます。
次に、細川君は、曾つて貴族院議員の職にあること三十年、その間東亜同文書院、日華学会会長、斯文会名誉会員、東京地学協会会長、帝室博物館復興翼賛会副会頭、国宝保存会会長、美術振興調査会会長、日本美術協会顧問等に就任し、現に国立薄物館顧問、同評議員の職にある者であります。
その次に東京の上野公園の不忍池の問題でございますが、御承知の通りに、だか——この公園のできましたのは、ずいぶん古い東京市の市区改正條例に基きまして、この設計が進められて参つたのでございますが、大正十三年に宮内省から東京都に帝室博物館、図書館等を除きました地域を御下賜になつております。いわゆる恩賜の公園であります。
○大池事務総長 團伊能さんは大正六年に帝國大学を卒業して帝室博物館の嘱託として欧米に留学せられ、ハーバード大学、リオン大学に学ばれ、帰朝後は東京帝大の文学部の講師をやつておられまして、その間フランスから記章をいただいたり、イタリアから勳章をいただいたり、また財團法人國際文化振興会の理事となり、アメリカ各都市に文化使節として遊説せられ、ロンドンにおける支那美術展覧会に日本代表として出席され、またパリ萬國博覧会
國の方に移りましたものについては、今までの帝室博物館でありましたときよりも、一層有効に公開するような趣旨で、國立博物館においてずいぶんと計畫を立てておりまして、著々その事業が進行しております。また正倉院につきましても、博物館と相談の結果、これはまだはつきりは申し上げかねるのでありますが、多分この秋には正倉院の御物を上野まで運びまして、一般に展觀するの便宜をはかろうかという話が現在進んでおります。